昭和59年12月18日 月次祭
この方の道は喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせんとおおせられる。これをどのような場合でもどんな事柄の中にも、喜べれると言う事。もうこのけいこに尽きると思うですねお道の信用は、もう限りがない。ま私の場合でもこの御教えを、まぁどれ程皆さんに聞いて頂いたか分からないぐらいですけれども。それがやっぱり一年歳々、本当なものになって行きつつあるその課程が合楽の信心の、ま過程であると言うても良いと思うくらいです。
この度の報徳祭にやはりお祭と言うのは、お互いの信心の一つの区切りの様なもので、どの位の信心が身に付いたかと言う事を確かめ、分からして貰うこよない機会だと思うんですがね。この度の御大祭で特に私は感じた事でございますけども、あの通り朝からそれこそ秋雨の降りしきる中に、御大祭が奉仕されました訳ですが。朝御祈念を終わって目覚ましのおかげを頂いて、外がようやくこう明るくなって参りますが。しとしとと湿りがあって、私はやぁ今日はしっとりとしたお祭が頂けるぞ、拝めるぞと思わせて頂いた。
まそんときにはさほどには考え思わなかったんですけど、だんだんお祭りが進んで参りまして終わる頃には、今日は確かにしっかりとした御大祭であったな、まぁしっとりとした思いを心の中にも頂いて、おかげ受けたなぁと思わして頂いたのですけど。これがつい先頃までだったらどんなだったろう、合楽の御大祭にお湿りがあるなんて考えた事も無かった。ならもう絶対お天気になると、と言ったもしならそこにパラっとでも降ったりしたら、これはあぁどこか間違ってはいなかっただろうかと。
御無礼が出い取ったんじゃないだろうかと、言った様な思いが先に立っておったですけれども。そういう中に今まで味合うた事のない信心の喜び、それこそしっとりとして涌いてくる様に頂ける心の喜び、降るとか照るとかそんな事はもう全然問題ではない。ただその事が味がない。天地の親神様が教祖様に、お前はどんな事があっても一切を喜びに喜びで受ける、もう試しようがないとされ、まぁ仰せられたと言う事でございますが、喜ばねばならんから喜ぶと言うのではなくて。
どの様な場合に直面しましてもそれがもうもう既に、いわゆるしっとりとした心で、またも喜びが心でそれを受け止めておれれる。あらぁ私の信心の一つの飛躍だなぁ、この報徳祭を境にまた一段と、有り難いものが頂けておるなぁと言う事を思いましてね。お道の信心はいよいよね自分の喜び、信心の喜びを確かめ確かめ、修行させて頂いて行く内にいつの間にか、そうした喜びの心が育って来るもんだと思わせて頂きます。御大祭が終わって前講を三男の幹三郎が務めておりました。
まぁ沢山の御大祭を頂いて参りまして、必ず前講には立教神伝が奉読されます。立教神伝を奉読しながら、あのう泣きながら感動しながら、まぁ読み上げたり聞いてもらったりすると言う様な事は、私は始めは何なんかこう忘れたっちゃなかじゃろうかと思いよったら、なんの感動しておるのです。やっとかっとの様にして奉読させて頂きましたが、そのやっとかっとの様な感じの中に、自分の心中にま身にひっきょうしてと、もう100のものは99はもう駄目だとはっきりお医者さんから言われ。
いわゆる医師も手を放しと言う程しの、もう大病の中からおかげを頂いて、今日があると言う事が死んだと思うてと言うあの下りが、立教神伝であのう泣いた、泣いたと言う私は初めて、あまりのおかげを受けておらなければ出来る事じゃない。本当にはぁ今日は確かにそれこそしっとりとした御大祭であったなぁと思いました。今年はちょうど光昭が南米から帰って参りまして、ちょうど前14日に帰ったです。それでまぁお土産話をでもと言うのでお説教を光昭が承りました。
もうあちらだ受けたいわゆる合楽の信心の言うならば偉大さと、どこへ行っても御理念が通用すると言う事を、まぁあの人流に面白おかしゅう、または自分も感動しながらお話を致しておりましたが、私があのう二人の子供たちのお話を聞いて、また若先生が見事にご祭主を努めさして頂く事が出来、子供たちのそうした様子を見せて頂き聞かせて頂いて、この調子で子供達が育って行けば、もう大丈夫だなぁとそういう思いが致しました。昨日は私の父の丁度亡くなりまして10年の式年のお祭を奉仕させて頂きました。
大祭に引き続いての事でございますから、皆んなも疲れておりましたでしょうけれども、もう何と申しますかね、それこそしっとりとした喜びに溢れたご霊祭でございました。祭主を古川威智雄先生が承りました。副祭主を佐田恒之先生いわゆる私の娘婿たち二人で祭主副祭主を務めたわけでございますが。4,5日前に私が威智雄さんに、今度の霊祭はあんたが祭主を仕えたくれないかという事を相談しておりました。
そん時咄嗟に自分のような碌なもの、経験の無い時分が出来るのかと思ったけれども、なら親先生が言われるからと思って受けさせて頂いたが、それからいよいよ私は心を御霊様へ向ける精進に務めさせて頂いたという話を、お祭が済んだ後に聞かせてもらいました。ははぁ成程そういう精進があってこそ初めてこういうお祭が頂けるんだ、なんだなぁ。御霊様の喜びもさる琴ながら神様のお喜びもまたさることだと言う事を、私はいわゆる威智雄さんが為にはお爺さんになる訳ですがね。
のご霊祭を奉仕えさせて頂く、もう難しい御霊の贈り名がございます。まずその贈り名を覚えさして頂いて、もう繰り返し繰り返し御霊様と通う心掛けを、祭主を願われて5日間毎日その事を思い続けられて頂いておりましたら。不思議な不思議な働きが私の周辺に、御結界の奉仕をさせて頂くでも、お参りを見えられる方達のお取次ぎをさして頂くのに、不思議に不思議に有り難いお取次ぎができる。ほう御霊様の事をこうして一生懸命思い続け願い続けておれば。
神様が喜んで下さる証拠にこう言う御用が出来ると言う事は、なんと有り難い事だろうか。信心とは自分の心の中にこれが信心だと思う事を、願い続け思い続ける事なんだなと言う事を、まぁ悟らせて頂いたと言うお祭り後のお話でございました。聞かして頂いて有り難いなと思います。皆さん必ずこうと言う事です。これがこうする事が本当だ信心だと言う事を私は思い続け願い続ける事だと思う。それが私は我神と共にありと言う様に、神様がぴったりと心に寄り添うて下さる、最高の手立てであると思います。
寝ても覚めてもと言う風に申しますけれども、それこそ寝ても覚めても自分の心の信心いわゆる一つの心情と言った様なものが、心の中にね思い続けれれる考え続けられる、と言う事がこんなにも尊いものだ、それがそのまま天地との交流ともなり、神様のお喜びともなりそのルートを辿って、生まれてくるおかげというのは、今まで体験した事のない、ははぁこの生き方でおかげを受けたらいい、こういう心の状態でお取次ぎをさして頂いたら良い、と例えば古川先生が感じたと申します様に。
そういう信心が私は繰り返される事だと思うですね。しかも生涯かけてこの方の道は喜びで開けた道。もうそれこそ何千何百回聞くか分からない、まお話でございますけれども。それがねやはりならせめて、大祭から大祭までの間に、どのくらいに自分の心の中にそれが本当なものとなって、自分の心の血肉に成っておるかと言う事を、確かめてこそ初めて、また分かってこそ信心の有り難さというのじゃないでしょうか。お取次ぎを頂いてお願いをしておかげを頂いた、不思議なおかげを受けられるというだけではなくて。
心の中に育つところに信心の喜び、私は今年の報徳祭に始めて、まぁ丁度ほし目に併せて頂いた事を、もうまぁ心からお礼を申させて頂いて行けたと言う事が、私の信心の飛躍であったなと言う風に思わせて頂きました。これからどれほどまたお話を聞いて頂くか分かりませんけれども、結局その芯に流れるものは、あのう信心だれ信心によって育てられる信心の喜びである。だからそれは同じものに行き会っても、その喜びが育っておる新しいところのものですから。
やはりこうしてお伝えをする皆さんが聞いて下さるでも、また新たな事として響いて行く事とだと私は信じます。もう確かに喜びで開けた道ですから喜びで開いて行く所のおかげの世界でなからなければ心元ない。この喜びによって開けて来る道であってこそ、初めて子にも孫にも伝えられ。昨日の霊祭の後に皆さんに噂さして頂いた事でございますけれども、親が子を思い子がまた親を思うと言う事は誰でも同んなじである。けれども例えば親が子を思うと言う事の中に、もうこの子はどこに置いておっても大丈夫だ。
とその子供の上にそうした安心が頂けれる。私が報徳祭に子供たちの御信心の様子をお話の中から、またはそのお祭の御用ではその中から、子供たち上の事を感じました様に、この調子でいけば信心はいよいよこの調子で行けば信心は育って行く。信心が育って行きゃおかげがついて来る。本当に子供達の上に安心が出来ると言う事は、親としてさいごじゅうに有り難い事はない。やはりね子が親を思う親が子を思う、その思いと言う事は誰でも同んなじなんだけれども。
その子供に不安のない本当に見事にお育てを頂いておる。この調子でお育てを頂けば大丈夫だと言う、安心と喜びが頂けるような各言うなら家庭の上でも、そういうおかげを頂くために中心のあなた方一人一人がいよいよ喜びを、目指して頂く本当の喜びを頂くために、古川先生じゃないけれども、願い続け思い続けると言う事それが日常生活の上にも頂けてくるところに、思いもかけない生活の上に、神様の働きをはっきりと感じ取る事が出来、頂く事が出来ると言うのですから。
このしんじんをね、いよいよ日々が喜びが焦点であり。今月今日をそういう稽古に明け暮れる時、初めて信心の喜びが頂けるのじゃないでしょうか。信心の喜びと驚きと言う訳ですが、それこそ驚かずにはおれない程しのおかげ必ず伴うて来るのでございます。信心の位置を迷わず失わず末の末まで教え伝えよと仰せられる。難しい事を覚えて難しい事を勉強させたり難しい事を教えておくと言う様な事ではなくてね。私共の信心内容がいよいよ喜びに向かって真の喜びを求めていっておれば。
その喜びが家内子供その周辺に広がっていかない筈はない。そういう一つ喜びの世界をいよいよ広げて行きたいと思います。今年もあとわずかでお月次祭はあと23日1回と言う事になりますが、その1回1回のお祭の都度ね、お祭からお祭りまでの間に、私の心がこの様に育って行っておる事を、感じれるくらいに一つ神様をいよいよ心から離さずにね。思い続け念じ続け願い続けるおかげを頂かれて、信心のいよいよ喜びに触れて頂きたいと思います。
どうぞ。